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がん特集 <Advance>:がん探知犬

がん特集:発展、がん探知犬

近年、「がん探知犬」という普段聞き慣れない犬に注目が集まっている。世の中には盲導犬、介助犬、水難救助犬などが活躍しているが、がん探知犬については初めて聞く人も多いだろう。がん探知犬とは、犬がもつ特別な嗅覚を利用して、がんが発するにおい物質を介して、がんの早期発見につなげることを目的とした訓練犬。現在、がん探知犬のもつ驚異的ながん診断能力が世界的に注目されはじめている。


1. がん探知犬の歴史

「がん探知犬に関連する報告が初めて医学雑誌で掲載されたのは、1989年のことです。世界的に著名な医学雑誌であるThe Lancetのなかで、ロンドンの皮膚科医が1つの症例を報告しました(*1)」。本学でがん探知犬に関する研究を複数の診療科と横断的に実施している、日本医科大学千葉北総病院外科の宮下 正夫(みやした まさお)教授は言う。

その報告によれば、ある女性が、足に小さな隆起性の痣(あざ)をみつけ、近くのクリニックを受診したが、医師の診断では医学的な問題はなく、単純に美容的な問題であるとのことだった。

しかし女性が飼っていたコリー犬はそうは思わなかったようだ。クリニック受診後もたびたび女性の痣に近づき、においを嗅ぐことを繰り返し、女性が何度もやめるよう命令したにも関わらず、その後も犬は痣にまとわり続けた。そのため、女性も何かしら変だと思い、今度は皮膚科の専門医を受診したところ、病理検査の結果、その痣は皮膚がんの一種である悪性黒色種であることが分かった。幸い、がんは早期であったため、転移などもなく、切除することで治癒したそうだ。

イラスト:犬の嗅覚「この症例報告の結論としては、犬の嗅覚には、がんが発するにおい物質を検出できる能力があり、その能力によってがんを見分けることが出来るのではないか、それを立証するためには更なる研究が必要である、ということでした。しかし、この報告から10年ほどは、別の症例が1つ報告されたほかは(*2)、この分野における大きな進展はありませんでした」(宮下教授)。

しかし、最初の報告から15年が経過した2004年に、今度は症例報告ではなく、144名の尿サンプルを用いた大規模な研究が行われ、その結果が著名なBritish Medical Journalに論文として発表された(*3)。

それによると、まず6匹の犬に対して7ヶ月間をかけて、膀胱がん患者に由来する尿(膀胱がん尿)を嗅ぎ分けるための訓練を行った。その後、実際に、膀胱がん尿と、がんではない人に由来する尿(コントロール尿)を見分けられるかどうかについて、それぞれ6匹の犬に対して9回の実験を行っている。

実験方法は、1つの膀胱がん尿と6つのコントロール尿をランダムに並べた7つのサンプルに対して、犬が膀胱がん尿のみを嗅ぎ分けられるか、というもので、その成功率を偶然の確率14%(=1/7)と比較した。その結果、計54回のテストのうち、22回で犬は膀胱がん尿を嗅ぎ当て、その成功率41%(=22/54)は14%と比較して有意に高かった。そのため、「論文の筆者らは、犬には尿中のにおい物質を介して、膀胱がんを見分けられる能力がある、と結論づけています」(宮下教授)。

その後、実験はさらに進み、「現在では肺がん、乳がん、子宮がん、大腸がんに関しては、訓練した犬であれば、においを介してがんを見分けることが出来るという報告がされています(*4,* 5, *6)」(宮下教授)。


2. がん探知犬:マリーン

がん探知犬:マリーン現在日本医科大学が取り組んでいるがん探知犬のプロジェクトでは、「マリーン」という10歳のラブラドールレトリバーを用いている。マリーンは千葉県南房総市内にある専門施設で訓練を受けた雌犬で、2005年からはがん探知犬としての訓練を受けた犬だ。

「私たちが実施しているのは、子宮がん、卵巣がん、乳がん、胃がんなどについての実証実験です」(宮下教授)。まず探知犬の訓練方法として、マリーンにがん患者由来の尿サンプルのにおいを事前にかがせて覚えさせた後に、がんサンプルとコントロールサンプルとを見分けさせる訓練を何度も繰り返し行う。「犬も人間と同様に、ほめられるとやる気が出ますので、がんサンプルを嗅ぎ当てたときには、直後にテニスボールを使って遊ぶ「報酬」を与えます。このようにしてがん由来のサンプルとそうでないものを見分ける能力をマリーンに身につけさせます」(宮下教授)。この訓練は専門施設で行うという。

次に実際の実験方法で用いる実験手法は、ダブルブラインドテスト(double blind test、二重盲検試験)といって、実験実施者もマリーンも、つまり試験官も受験者も共に正解が分からない状態で実験を行う。この手法をとることによって、「実験を実施するわれわれの挙動などが、マリーンの判断に影響しないようにします」(宮下教授)。

イラスト:実験実験では、がん患者由来の尿が1cc入った滅菌済み試験管1本と、コントロール尿が入った同様の試験管4本の合計5本を用意し、それぞれを木箱に入れてランダムに配置する。まず直前にがん患者由来の呼気サンプルをかがせて、その後どの木箱の中にがん患者の尿検体が入っているかを嗅ぎ当てる実験を行った。マリーンはがんのにおいを察知するとその木箱の前で止まるが、そうでない場合は通り過ぎるように訓練されていて、「ほとんどの場合、木箱の前を1回通るだけで嗅ぎ当ててしまいます」(宮下教授)。そのようにして、木箱の中身を入れ替えながら何度か実験を行う。

本実験結果の一例として、本学付属病院の女性診療科・産科の鴨井青龍准教授、山本晃人助教・医員および財団法人慈山会医学研究所付属 坪井病院婦人科坂本且一副院長と共同で行った実験がある。この実験では、婦人科系のがん患者(子宮がん、卵巣がん)由来の尿サンプルを用いて実験を行った。

実際に使用されているテストキットすると驚くべきことに、「マリーンは50例以上もある子宮がん患者由来の尿サンプルについて、全て嗅ぎ当てました。感度は100%ということになります。」(宮下教授)。このなかには、進行した子宮がん患者のみならず、子宮がんのごく初期の患者や、子宮がんに限りなく近く病理学的に高度異形成と診断された患者なども含まれていた。またマリーンは、卵巣がんについても全てを嗅ぎ当てたという。つまり、「がん患者を「がんである」と診断する確率の「感度」については共に100%の結果となりました。また、がんでない方を「がんでない」と判断する「特異度」についても、子宮筋腫や子宮内膜症では数十例を調べても一度も反応せず、100%でした」(宮下教授)。一方、卵巣に関してのみ、がんではない卵巣囊腫に対して反応したケースがあり、特異度は98%となった。ただし、これまでのマリーンの実績からいうと、卵巣囊腫の人の尿に反応したということは、もしかしたらその人には他の臓器にがんがある可能性も否定できないという。そのため、その人にはさらなる検査が必要とのことだ。これらの結果は今年の日本産科婦人科学会で山本講師が発表している(山本晃人:第64回日本産科婦人科学会学術講演会「婦人科悪性腫瘍に対する癌探知犬の有用性」)。

また、別の研究として、本学付属病院の乳腺科の飯田信也准教授と共同で実施した乳がんの研究においても、「マリーンは病期0から病期4の乳がん由来の尿サンプル50例あまりについて、全て嗅ぎ当てました」(宮下教授)。つまり婦人科系がん同様、感度は100%であった。またこの中には、乳がんでも非常に早期にあたる病期0の症例が5例含まれており、早期がんに対する感度の高さも証明している。一方乳腺の良性疾患数例については1例のみ、マリーンはがんと判断。この1例は「急速に増大し臨床的にも乳がんとは区別が難しい良性腫瘍でした」(宮下教授)。一方で、多くの健常人のサンプルについては、すべてがんとは判断しなかったという。この結果は今年の日本乳がん学会で飯田准教授が発表している(飯田信也:第20回日本乳癌学会学術総会「癌探知犬による乳癌スクリーニング」)。

これらの実験に加えて、宮下教授の研究からマリーンは胃がんでも高い感度と特異度で反応することが分かっている。このことから、「マリーンは子宮がん、卵巣がん、乳がん、胃がんなど、がんの種類や進行度に関わらず、驚異的な確率でがんを診断出来ることが分かります」(宮下教授)。一方、これまで報告されてきた外国のがん探知犬の成功率というのはマリーンに比べると低いものだった。たとえば先述のBritish Medical Journalで用いられた探知犬の成功率は41%である。「その意味でもマリーンがどれほど高い能力を持った探知犬かが分かります。これほど精度の高い探知犬は世界的にもいないでしょう」(宮下教授)。

実験の流れについて


3. がんが発する「におい物質」の正体

イラスト:犬の嗅覚それでは、がん探知犬は、がんの何に対して反応しているのだろうか?これまで考えられているのは、「がん細胞には特有な代謝があり、そこで生じる揮発性の有機物質(volatile organic compounds: VOCs)に反応しているのではないか、ということです」(宮下教授)。犬の嗅覚は人間の100万倍以上も高いと言われており、人間では分からないVOCsにも犬には嗅ぎ分けることが出来ると考えられている。

「VOCsに関しては、これまでもがん患者さんが吐く息のなかに、特有のVOCsが存在するのではないかということは言われていました」と宮下教授は言う。そして、その物質を同定することで、「VOCsを利用した安価で正確な検査を検診などのスクリーニングで用いられないか、と考え過去に研究が行われてきました(*7, *8)」(宮下教授)。これらの研究の多くでは、GC-MS (ガスクロマトグラフィー・質量分析計)という装置を使って、がん患者の呼気中の成分を分離し、その分子量を測定することで物質を同定する試みを行っている。残念ながら、今のところ科学的にはっきりと立証された物質の同定にはいたっていないが、「今後さらに研究が進むことで、がんが発するVOCsが同定されることが期待されます。われわれも現在この装置を用いて、がんから出ていると考えられる物質を同定するため、日々研究活動を続けています」(宮下教授)。

ここまでで言えることは、宮下教授の一連の研究や他の研究結果から考察しても、がんは、がんの種類に関わらず共通するにおい物質を発している可能性が高いということだ。

またマリーンは、がん化して間もない早期がんの病期0や、高度異型性の状態にも反応している。これはつまり、「仮にがんに共通するVOCsがあるとすれば、それらは、がんが発生する非常に早期の段階から出現するのではないか」(宮下教授)、と考えられるという。


4. 今後の研究について

イラスト:今後の目標・更なる発展これまでの研究結果より、「子宮がん、卵巣がんなどの婦人科系がんに加えて、乳がん、胃がんにおいても、統計的に有意な差を持って探知犬の有効性を証明することが出来ました」(宮下教授)。今後の目標は、「さらに別の種類のがんや、がんの進行度別の実験を行いたいと思っています」(宮下教授)。

一方、がん探知犬の限界もある。例えばがん探知犬をがん検診などに用いることが出来れば良いが、がん探知犬が1日に可能なテストは多くても4,5回。何万人も相手とする検診には向かない。またマリーンは非常に優秀だが、今後はマリーン以外のがん探知犬の養成も必要になってくる。しかし、そのためには膨大なコストもかかる。

しかし、本研究におけるがん探知犬の感度と特異度を見ても、また自覚症状がない早期がんでも嗅ぎ分けられる能力を見ても、がん探知犬の精度は他の検査と比べて驚異的に高いことが分かる。そのため、「今後はその能力を最大限に有効利用するためにも、犬が嗅ぎ分けているにおい物質を特定し、早期発見の技術につなげることが重要です」(宮下教授)。

イラスト:マリーン「幸い、本法人には日本獣医生命科学大学があり、バックアップ体制を含めて、がん探知犬の研究を展開するには理想的な環境となっています」と宮下教授は言う。今後はがんが発するにおい物質の同定に努め、「将来的にはがんのスクリーニング検査やがん治療の効果判定、再発転移に関する評価判定などに研究を進めて行ければ、と考えています」(宮下教授)。

 


参考文献

*1. Williams H, Pembroke A. Sniffer dogs in the melanoma clinic? Lancet 1989; 1: 734.
*2. Church J, Williams H. Another sniffer dog for the clinic? Lancet 2001; 358: 930.
*3. Willis CM, et al. Olfactory detection of human bladder cancer by dogs: proof of principle study. BMJ 2004; 329: 712
*4. McCulloch M, et al. Diagnostic accuracy of canine scent detection in early- and late-stage lung and breast cancers. Integr Cancer Ther 2006; 5: 30e9.
*5. Horvath G, et al. Human ovarian carcinomas detected by specific odor. Integr Cancer Ther 2008; 7: 76e80.
*6. Sonoda H, et al. Colorectal cancer screening with odour material by canine scent detection. Gut 2011; 60:814
*7. Phillips M, et al. Volatile markers of breast cancer in the breath. Breast J. 2003 May-Jun; 9(3): 184.
*8. Gordon S, et al. Volatile organic compounds in exhaled air from patients with lung cancer. Clin Chem. 1985 Aug; 31(8): 1278.
 

(この記事は2012年8月取材時点の情報です)

プロフィール:宮下正夫

研究者データ